~背景を見ようとして一糸も届かず、そこでもがき垣間見た自分の
とあるの皆様
関口朋美です。交換日記の筆をとってます。
先の工藤さんの交換日記(VOL178)から、今生きてて、自分
工藤さんの文章を読んで、自分の中の何かが片付いてく感じを受け
その中でも下記の言葉↓以下引用(工藤さん交換日記より)
~どうしてあの状態で舞台に立とうと思ったのだろう。
自分にはその「背景」に迫ろうとすることが、誰にとってというこ
「背景を感じる」働きかけは、自分からできるものです。
そして多くの場合は、真意の伝達という点等で相互にある種やさし
それでも「背景を感じる」ことをやめないならば、自分は何を知り
最近の私の行動ふるまい、(生きてる表現)は、まさに周囲にとっ
目をそむけたくなるような、しんどいものだったのかなーと自分で
大きな大切な出来事がありました。。
そのとき、先の上記工藤さんの文章が頭に浮かび、そうだ、、自分
どうしようもなくなるぞ。。と気づいた。
自分のことを見つめられる一番の存在は自分だった。じゃあどうや
その時真っ先に感じた思い浮かんだ言葉が「曇りなき眼」だった。
もののけ姫の映画動画で2回くらいしかみてないけど、思い出した
主人公アシタカさん烏帽子にどうする?と聞かれたときいったセリ
「曇りなき眼で見定める」
私の眼は曇っているというかつぶっていたのでは?いや見たい時に
目は、観念と常識、こうであればならないという観念で、霞み、曇
まず私は周囲の背景を感じる前に
自分の行動と言動、そして今までの生き方の背景を棚卸したいと思
曇りなき眼で。。
それは自分にとって、目をそむけたいことである。
それでもその自分自身の背景を見つめた先に私が見えるものがあっ
私は、またそれが、何かを伝えていきたいと思う。
それがどんな形なのか、まだイメージがつかないけど。
それは、
曇りなき眼で自分をみつめ他者をみつめ、背景を見定めて
そのとき、滴り落ちた、見たくない葛藤も超え、苦しみも超えた先
工藤さんの上記引用の問いを自分の中で問いただし、
私が今生きてる現実(生きてる表現度合)と、
今まで生きてる中で構築された関係性から気づかされたこととして
私はこう少なくとも思ってます。
そして、これから生きてく中で、今もこれからも自分の背景を見つ
私がみえるものとして、
いずれ必ずやってくることとして
一見、悲しいことかもしれないし、限界(老い、引き際、死)かも
それでも、きっと、私はそこから、静かな喜びと切ない幸せを感じ
できる自分を目指したい。
そして静かに自分で自分を笑い、それも、周囲に、お話するときが
背景を曇りなき眼で自らをみつめ、そして愛する人をみつめて、生
笑って死にたいと思いました。
(今死ぬわけではありません)
あえて具体的内容はいいませんが
コミュニティの皆さん、乙川さん、鶴巻さん、本当に感謝です。
そして、相変わらず
収集つかない長い長いアウトプットを貴重な時間を割いて読んでく
皆様ありがとうございました。
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