曇りなき眼で見定める【とある交換日記】~vol.181

~背景を見ようとして一糸も届かず、そこでもがき垣間見た自分の背景~

とあるの皆様

関口朋美です。交換日記の筆をとってます。
先の工藤さんの交換日記(VOL178)から、今生きてて、自分が連想したこと、気づきを。
工藤さんの文章を読んで、自分の中の何かが片付いてく感じを受けたので。。
その中でも下記の言葉↓以下引用(工藤さん交換日記より)

~どうしてあの状態で舞台に立とうと思ったのだろう。
自分にはその「背景」に迫ろうとすることが、誰にとってということなく、とても残酷なことに思えました。
「背景を感じる」働きかけは、自分からできるものです。
そして多くの場合は、真意の伝達という点等で相互にある種やさしいものでしょうが、時にしんどく目を逸らしたくなってしまうものと思います。
それでも「背景を感じる」ことをやめないならば、自分は何を知り、何を伝えることができるだろう。~(工藤さん交換日記より)

最近の私の行動ふるまい、(生きてる表現)は、まさに周囲にとって背景をさぐりたくない
目をそむけたくなるような、しんどいものだったのかなーと自分で自分に苦笑いだった
大きな大切な出来事がありました。。

そのとき、先の上記工藤さんの文章が頭に浮かび、そうだ、、自分の背景は自分でみつめないと
どうしようもなくなるぞ。。と気づいた。
自分のことを見つめられる一番の存在は自分だった。じゃあどうやって?

その時真っ先に感じた思い浮かんだ言葉が「曇りなき眼」だった。(なぜ!?)
もののけ姫の映画動画で2回くらいしかみてないけど、思い出した言葉
主人公アシタカさん烏帽子にどうする?と聞かれたときいったセリ

「曇りなき眼で見定める」

私の眼は曇っているというかつぶっていたのでは?いや見たい時に視線をあて
目は、観念と常識、こうであればならないという観念で、霞み、曇っているというか汚れてたな。
まず私は周囲の背景を感じる前に
自分の行動と言動、そして今までの生き方の背景を棚卸したいと思った。
曇りなき眼で。。

それは自分にとって、目をそむけたいことである。
それでもその自分自身の背景を見つめた先に私が見えるものがあったとき、
私は、またそれが、何かを伝えていきたいと思う。
それがどんな形なのか、まだイメージがつかないけど。
それは、
曇りなき眼で自分をみつめ他者をみつめ、背景を見定めて
そのとき、滴り落ちた、見たくない葛藤も超え、苦しみも超えた先の表現こそが生きる表現なんだと。

工藤さんの上記引用の問いを自分の中で問いただし、
私が今生きてる現実(生きてる表現度合)と、
今まで生きてる中で構築された関係性から気づかされたこととして
私はこう少なくとも思ってます。

そして、これから生きてく中で、今もこれからも自分の背景を見つめ続けたその先に
私がみえるものとして、
いずれ必ずやってくることとして
一見、悲しいことかもしれないし、限界(老い、引き際、死)かもしれない。
それでも、きっと、私はそこから、静かな喜びと切ない幸せを感じ受容すると思う。
できる自分を目指したい。
そして静かに自分で自分を笑い、それも、周囲に、お話するときが来るんだと思う。

背景を曇りなき眼で自らをみつめ、そして愛する人をみつめて、生きて
笑って死にたいと思いました。
(今死ぬわけではありません)

あえて具体的内容はいいませんが
コミュニティの皆さん、乙川さん、鶴巻さん、本当に感謝です。
そして、相変わらず
収集つかない長い長いアウトプットを貴重な時間を割いて読んでくれて
皆様ありがとうございました。

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