交換日記の件【とある交換日記】~vol.178

みなさま

お疲れ様です。
工藤です。

交換日記の文案をお送りしたくご連絡いたしました。
ただ、収拾つかず長くなってしまったので、メルマガの都合によりカットや書き直し必要であれば、お知らせくださいますと幸いです(前日になり、申し訳ありません)。

おとさんは体調を崩されていたとのことで、引き続きご無理はなさらずご自愛いただければなと思います。

よろしくお願いいたします。

↓↓↓

工藤と申します。

交換日記の最初が自分で良いものか…悩みつつですが、よろしくお願いいたします。

お題ですが、自己紹介のうち趣味の1つであるお能に興味を持ってくださる方がいらっしゃるなと…。

お稽古を10年続ける先達が「ようやく『お能の香り』の『か』ぐらいはわかってきたかな?」と仰る世界なので、

自分には香りさえまだ漂ってこない…という状態ではあるものの、お能について少し書いてみようかなと思います。

そもそもお能とは?というのは、能楽協会さんのHPにお任せしまして…

ようこそ!能楽の世界へ | 公益社団法人 能楽協会
https://www.nohgaku.or.jp/about/welcome.html

——–

まず、自分はお能の何に惹かれているのだろうということについて

考えてみると、その1つがサイクルなのかなと思います。

「生-死」「若-老」「継承」といったものです。

例えば、時代にもよりますが曲の展開の1つに「死者が他の姿を借りて現れ、後に正体を現す」というものがあります。

現実的な意味はなく、救われるものも救われないものもあるのですが、舞台上で生死が交差する。舞台上で輪廻転生を垣間見るような余韻が残るのです。

また、若い頃から芸を極めて老いにあって退くという演者自身の在り方があります。

老という限界が少しずつやってきて、それを見つめながらそれでも晩年の芸を極める、けれど見極めたらそこで身を引く、というのは胆力のいる在り方だろうと思います。

同時にそういった姿を若手に見せることも間接的な継承の1つなのだろうと思うのです。

——–

さて、先のつるけんさんのメルマガに「背景を感じる」というテーマがありました。

言葉、行動、現象…広げてみれば様々なものが対象になるかと思いますが、これまで観てきたお能の舞台の中で、「背景」という点でとりわけ記憶に残っているものがあります。

一言でいうと、これはおこがましいのは承知の上ですが、「目を逸らしたかった」舞台です。

とても高名な方がシテ(主役)だったのですが、少し違和感があり舞台の進行につれご自身で姿勢を保持するのも難しいような状態になられました。

お能は引き算が大事、静止があるから少しの動きが大きく見えるのだと、先生からよく言われます。

舞台の上では、静止(実は多方向の力の緊張状態)が大事なのだなと。

それなのに(というと意地の悪い言い方でしょうが)姿勢維持もままならず、舞台から引く時も後見・地謡の方の手を借りて一苦労…という常ならぬ状態でした。

目を逸らしたいのに観ざるを得ない、そんなじゃりじゃりした時間

これが老の一面か、とも思いました。

ちょうど1年前の舞台を拝見していたので、尚更時というものが恐ろしく、過去に遡って身勝手にその一時の重さを思いました。

その後、かつてのインタビューで病後の舞台の出来に悔しさを露わにしているのを読み、素人ながらもその方の芸へのこだわりを知って、では先の舞台は何故?と思わされたのです。

どうしてあの状態で舞台に立ったのだろう?

自分にはその「背景」に迫ろうとすることが、誰にとってということなく、とても残酷なことに思えました。

——–

「背景を感じる」働きかけは、自分からできるものです。

そして多くの場合は、真意の伝達という点等で相互にある種やさしいものでしょうが、時にしんどく目を逸らしたくなってしまうものと思います。

それでも「背景を感じる」ことをやめないならば、自分は何を知り、何を伝えることができるだろう。

そんなことを考えました。

先のメルマガから、消化できていない何かに躓いた、という感覚があってこの内容なのですが、まだ未消化のままのようです…。

もう少し簡潔にまとめなければと思いましたが、収拾つかずこのまま出させていただきました。

何卒お許しいただければと思います。

コメント